中山悟志の生いたち

あるお母様に、「先生がどんな人生を生きてきたのか知りたい」と言われ、話すのが難しすぎると思ったので書いてみました。もしも興味がございましたらご覧ください。

幼少期

1980年5月、兵庫県神戸市に生まれる。3人きょうだいの1番上。2つ下の妹と、5つ下の弟がいる。幼少期のアルバムを見るに、きっとたくさんの愛情を注がれて育ったのだと思うが、正直な所あまり覚えていない。幼いころから外で遊ぶよりも、家で遊ぶほうが好きだった。母に読んでもらった数々の絵本の中で、今でもよく思い出すのは北風と太陽。

小学生時代

勉強はごくごく普通だったが、発表することだけは極度に苦手だった。当てられたら答えるぐらいで、考えがあっても答えが分かっても、自分から発表しようとはしなかった。2年生の理科で豆電球が光ることに感動し、それからは理科好きを自認するようになる。豆電球やモーターを使った、電気仕掛けの工作が大好きだった。コンセントに興味津々で、いじって感電してしまったこともある。学研の科学という月刊誌が大好きでよく読んでいた。父は中学受験をさせたかったようだが、私にその気がなさすぎて断念したそう。習い事はいくつかしたが、勉強系のは一つもしなかった。

中学生時代

1年生のとき、中学生だからと大手進学塾にいれられるも、嫌すぎて1年経たずに辞める。2年生のとき、数学の先生が「お前らどうせみんな塾行ってるんやろ?」と、雑談ばかりで授業をしなかった。おかげで、授業がなくても勉強には支障がないことが分かる。むしろ自由に考えられて、それまでより数学が楽しく感じた。2年生まで、興味のない教科の成績はイマイチだったが、全然気にしていなかった。3年生になって勉強のコツをつかんだのか、興味のない教科までグッと成績が上がり1桁順位が定位置になる。行きたいと思う高校は特になく、受験日が早いという理由で明石高専を受験する。

プログラミングとの出会い

中学1年生になってすぐ、技術の教科書に載っていたBASICという言語のプログラムを自宅のパソコンに入力して、動いたことに感動する。教科書ではすぐに物足りなくなって、父の本棚にあったプログラミングの本を勝手に持ち出していろいろ試してみるようになる。本を読んでも分からないことがたくさんあったが、自分で試行錯誤しながら学んでいくのがすごく楽しかった。学校でコンピュータの授業があった中学3年生のときにはすでに先生よりも詳しくなっていて、友達に教えたり先生を手伝ったりした。

高専生時代

パソコンいじりとバイトに忙しい毎日で、勉強はテスト前しかした記憶がない。興味のあった情報系の科目はそこそこ理解していたが、その他の科目の多くは講義を聞いてすらおらず、いつもテスト直前に焦って勉強していた。1年生のときは追試になってしまったこともあるが、次第に短時間で頭に詰め込む学習技術に磨きをかけ、順位は10位前後をキープしていた。普段の講義は楽しくなかったが、卒業研究はとても楽しかった。研究テーマは合成音声で、自分のアイデアで自由に試行錯誤できることにすごくワクワクした。行きたいと思う大学は特になかったので、編入試験の日が早い順に受けていくことに。1つ目に受けた静岡大学にいきなり合格する。

大学生時代

3年次に編入学した上、電気系から情報系に鞍替えしたために認定単位数が少なすぎて、講義漬けの毎日。最初のうちはどの講義も真面目に聞いていたものの、高専で培った学習技術を活かして、次第に興味の薄いものはテスト直前に詰め込むだけに。勉強は高専よりずいぶん楽に感じた。一番好きだった講義はコンピュータネットワークで、インターネットの美しい仕組みに触れられる毎回の講義がすごく楽しかった。そのため卒業研究ではコンピュータネットワークを研究した。進路は、就職活動に興味がなさすぎて、そのまま大学院に進学することに。

家庭教師1

大学4年生から家庭教師のアルバイトを始める。3人目の生徒として受け持った中学生の男の子は、学校の授業を抜け出してゲーセンに行ってしまったりする子で、授業の時間になっても帰宅しなかったり、私が部屋に入っても無視して寝ていたりした。そこで、お母様に了承を得て、テレビゲームを一緒にすることに。そこから、少しずつ心を開いてくれるようになった。「オレ勉強するから、先生説明書読んでて!」と言われ、勉強する生徒の横で説明書を読んでいたことも。彼とはゲームをするばかりで勉強はほとんど教えていないが、彼は自分から勉強するようになって成績は上がっていった。

大学院生時代

卒業研究に続いて博士課程の方と共同研究をするように指示されたが、私はもっと自由に自分のアイデアで研究したかった。そこで独立宣言したところ、教授にすごく怒られた。それでも構わず、自分の研究をすることに。勝手なことをしているため、研究に必要な数百万円のソフトを買ってもらえず、1年かけて0から自作する。研究が楽しすぎて、ワクワクしながら研究室に通う毎日。正直、大学まで学校はあまり楽しくなかったが、大学院はものすごく楽しかった。あまりにワクワク研究していたためか、私のプレゼンを見たNECの研究所の副所長に「うちで働きませんか?」とお声がけいただき、就職先が決まる。

家庭教師2

家庭教師のアルバイトは、就職のため辞めることになるまで、ありがたいことに全員が継続してくれた。勉強を教えるのは自分が勉強するよりもずっと難しかったけれど、生徒の成長を感じられたときには自分のことのように嬉しかった。いつも授業をしに行くのがすごく楽しみだったし、生徒や親御様にすごく喜んでいただけた。やりがいのある仕事とはこういうものなのかなと思った。就職を控えた最後の授業は、一番最初から担当している女の子の授業だった。授業を終えての帰り際、お母様から最後に頂いたお言葉が今もずっと心のなかにある。最後の帰り道は、すごく悲しかった。

会社員時代1(研究職)

NECの社内環境はすごかった。市内一の高層ツインタワーが建っていたり、駅に会社直結の専用改札があったり、会社の中に食堂や売店はもちろん、カフェや図書館、さらにはフィットネスルームや病院まであった。こんなすごいところで楽しく研究してお給料まで頂けるなんて最高やん!と興奮した。しかし、それは最初だけだった。研究が、「楽しいこと」から「しなければならないこと」に変わるのに、それほど多くの時間はかからなかった。(そう変わってしまった理由は、後に分かることになる。)あと40年近くも研究を続けなければならないのかと思うと絶望すら感じるようになる。「何のために生きているんだろう?」そんなことを考える辛い日々。

英語と中国語

入社直後、自分の英語力の低さを何とかしなければと、半ば義務感から英会話教室に通うことに。ところが、レッスンが苦痛でたまらない。教室は通勤経路上にあったのに、サボってばかりでほとんど行かないまま辞めてしまった。同じ時期、旅行で訪れた中国が好きになって中国語を学び始める。通勤の電車の中で、ブツブツ発音を真似して練習していた。だんだんと一人で学ぶだけでは物足りなくなって、中国語会話教室に通うことに。教室までは片道50分もかかるのに、毎週のレッスンがすごく楽しみで、サボるどころかレッスンとは別に自由参加の中国語のお茶会みたいなものまで参加していた。必要性は全くないのに、中国語はメキメキ上達した。

辞職

心は明らかに仕事を辞めたがっているのに、なかなか辞める決心がつかなかった。それでも、一人旅をする中で踏ん切りがつき、所長に辞意を伝えた。「オレが見初めた奴やねんから、そんな簡単に手放すわけにはいかん。お願いやからもう一回考えてくれ。」そのときの所長は、私を誘ってくださった元副所長だった。こんな私を、すごく温かいお言葉で引き止めてくださった。所長を始め、上司や先輩、同期にすごく恵まれた会社員生活だった。それなのにたったの4年ほどで辞めてしまうことがすごく悲しかった。NECで学んだことは今も役立っているため、すごく感謝している。

転職活動

辞表が受理されると、不思議なことに心がすごく軽くなって元気が湧いてきた。「転職活動やるぞ!」という気持ちになって、転職エージェントと会うことに。ところが、リーマンショックの不景気で、めぼしい求人はあまりなかった。提案を断ってばかりいると、「あと1年だけ今の会社で待つことはできませんか?」と言われ、自分で探そうと思った。世の中が不景気でも景気の良い会社はあるはずだと考え、当時WiiやニンテンドーDSが大ヒットしていた任天堂のホームページを見てみると、エンジニア募集となっていた。応募してみたところ、内定をいただいた。

会社員時代2(開発職)

任天堂に入社後、本当にすごいなと感じたことがある。それは、社長の言葉が心に響くことだった。岩田社長の言葉を聞くと、不思議とやる気が湧いてくる。入社後いきなり開発に携わることになり、しばらくは朝7時から始業まで会社で勉強する毎日。残業も多くしんどかったが、苦ではなかった。社員皆が自社製品に誇りを持つ中、私もできるだけのことをしたいと感じた。ところが、携わったゲーム機が発売される頃になると、なぜか毎日に虚しさを感じるようになる。こんな素晴らしい会社で働いていても日々に虚しさを感じるのならば、ひょっとすると会社勤め自体が向いていないのかもしれないと考えるようになる。

転機

神戸学習院を経営していた父からそろそろ引退を考えていると聞く。そのとき、家庭教師の最後の授業の後に頂いたお言葉を思い出す。「先生みたいな方が、教育者だったらよかったのに。」その言葉に背中を押され、思い切って飛び込んでみることに。転職は一度経験済みのためか、前回ほど悩むことはなかった。ただ、任天堂は経営陣も尊敬できるし、チームの方々もすごく好きだったし、何もかもが本当に最高すぎる会社だったので、自分で決めておきながら辞めてしまうことがすごく悲しかった。

塾講師初期1

個人に教えることは家庭教師で経験済みだったが、集団に教えることは初めてだった。集団にはやる気のある生徒もいれば、そうでない生徒もいた。やる気のある生徒だけに目を向ければ、それほど難しくなかったのかもしれない。しかし、私はやる気のない生徒にも何とか分かることの面白さを感じてほしかった。そこで、最高に分かりやすい授業を目指した。コンピュータを活用して、直感的に理解しやすい授業を作り込んでいった。多くの生徒に喜んではもらえたが、皆に届くわけではなかった。ある日渾身の工夫を凝らした授業で、ある生徒が寝てしまった。根本的な何かが足りないのだと感じた。

塾講師初期2

やる気のない生徒は、まず間違いなく勉強の仕方がものすごくヌルい。勉強の仕方が分かっていないのかもしれないと考え、勉強の仕方の改善にも注力した。事細かくやり方を指示して、私の言う通りにすることを求めた。指示通りでなければ、何度もやり直させた。その結果、形だけは従うようにはなるものの、中身は全く伴わなかった。ただ、そのときのある一人の生徒は、私のやり方がすごく良いと感じたようで、懸命に取り組んだ。その結果、彼はトップクラスに入るようになった。勉強の仕方の改善は必要だが、やはり根本的な何かが足りないと感じた。

苛立ち

いつも授業も聞かなければ宿題もしない、全然やる気のない生徒がいた。毎回のように呼び出して、話をしていた。ある日、彼女はこんなことを言った。「毎回呼び出さないでほしい。言い訳を考えるので頭がいっぱいになるから。でも、うまく言い訳できるように国語力はつけたい。あと、やる気がないって言ったら話が長くなりそうだから、あるって答えている。」彼女のお母様もすごく困っておられた。いくら怒っても褒めてもスイッチの入らないお子さまに、どう接したらよいのか分からないとのことだった。「オカンの塾がほしいです。」そうおっしゃったお母様の切実な想いに応えることができない自分の無力さに苛立ちを覚えた。

発見

人のモチベーションについてきちんと理解する必要があると感じ、関係しそうな本を片っ端から購入して学び始めた。学んだことの中でも、自己決定理論という理論が衝撃的だった。これまでの人生の中での不思議な出来事が、この理論で実にうまく説明できることが分かった。塾の手厚い授業があっても楽しいどころか苦痛だった数学が学校の授業すら受けられなくなってより楽しくなったこと、あれだけ楽しかった研究が仕事になったことで苦痛になってしまったこと、英語にはやる気が起きないのに中国語には大きなやる気をもって取り組めたこと、一緒にゲームをするうちに勉強に向き合うようになった生徒といくら話しても言い訳ばかりする生徒のこと等など。対照的な様々なことに「自己決定」の有無が関係していたことを理解する。私の好きな北風と太陽に似ているなとも思った。

困難

人は自己決定をしたときに最大のパフォーマンスを発揮する。そのことを理解することは難しいことではなかった。さらに、生徒達からデータを取り続けることで、自己決定の度合いが学習の質に大きく関係することや、勉強のプレッシャーをかけないご家庭の生徒ほど、自己決定の度合いが高いことも分かってきた。私がずっと根本的に足りないと感じてきたものは、まさしくこれだと感じた。しかし、このことを勉強の指導に活かすことは大きな困難に思えた。そもそも勉強という言葉は中国語からきており、その本来の意味は「無理強いする」なのである。(中国語の勉强に、学習の意味は無い。)

現在

困難ではあっても、自己決定理論の知見を活かせるよう何年も指導の改善に取り組み続けている。その中で、自分自身の成長もすごく感じられるようになった。以前は生徒によく怒っていたが、今はもう怒ることは全くと言って良いほどない。生徒がどれだけ失敗しても、どれだけ間違えても、どれだけやる気がなくても、動じずにいられるようになった。「大丈夫やで。」心からそう言えるようになった。ある日、こんなことを言われた。「塾というより、研究所みたいですね。」やっぱり自分は研究が好きなんだと感じた。今はこの小さな研究所で、やる気を研究しながら生徒のやる気が育っていくのを見届ける日々に、大きな喜びを感じている。

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