楽しさが失われるとき

どんな塾?

学校のプログラミングおもんない。

先日、小学生のYくんがそんなことを言いました。Yくんはいつも塾で楽しそうにプログラミングに取り組む生徒です。一体どうしたのだろうかと話を聞いたところ、そう感じるのも無理はないと思いました。

それは、とても統制的だからです。Yくんのクラスでは他人の作品を見ることが禁止されたそうです。その理由は、他人の作ったゲームで遊ぶばかりになるからだそうです。そして、先生が用意した見本に沿って作らなければならなくなったそうです。

ルールで子どもたちを統制(コントロール)しようとされる先生のお考えも分からないわけではありません。決められた時間で身につけさせねばならないのに、遊んでばかりいては進まないではないか。きっと先生はそんなふうにお考えになって、禁止されたのでしょう。

ただ、モチベーションの観点からは、望ましいやり方だとは言えません。確かにそうすることで、望ましく見える行動に近づけることができるでしょう。しかし、それはあくまでも目に見える表面だけです。目に見えない子どもたちの心には望ましくない影響が及びます。

それは、楽しさの源泉である内発的動機づけが失われてしまうことです。つまり、本来楽しく取り組めたはずのプログラミングが、ただのつまらない体験に成り下がってしまうのです。その結果、興味をもって自ら理解を深めようとするのではなく、しなければならないことをただするだけになっていきます。

モチベーションの研究によって、内発的動機づけは非常に脆く壊れやすいものであることが分かっています。ですから、子どもたちにはもっと丁寧に向き合うべきだと思います。そのためには、子どもの視点に立つ必要があります。大人の都合で子どもたちを操作するのではなく、子どもたちと同じ視点に立って支援するのです。(このような接し方を自律性支援といいます。)

「子どもたちはなぜ他人の作品で遊ぼうとするのだろう?」子どもたちの視点に立ってそのことを考えたとき、ただ楽しさに流されて遊んでいるわけではないことが分かります。「こんなこともできるんだ!」とか「こうやったら楽しいんだ!」と、楽しむ中からいろんな発見をする子もいますし、「どうやって作っているんだろう?」とか「自分だったらこう作るのにな!」と、そこから考え始める子もいるのです。

実は、塾でプログラミングを楽しむYくんも、時には見本のゲームに夢中になることもあります。そして、彼はその体験からたくさんのことを見出します。彼が次々と新しいアイデアを着想するのは、そんな体験があるからなのだと思います。

先生、次はこんなん作りたいねん!

しばらく遊んだのち、彼にはまた新しい閃きが訪れます。そして彼は、目を輝かせて次の作品に取り組み始めます。彼が粘り強く困難に立ち向かおうとするのは、自分の頭の中のアイデアを実現したいからなのです。しなければならないことに従わされているとき、そのような行動は生じません。心からしようと思うことをしているからこそ、主体的に意欲をもってイキイキと取り組むのです。

生まれながらにして努力によって成長を遂げる生命体、すなわち人間は、他から統制されたり自分が効果的でないと感じたりすることに対して、意外にもろいことがわかってきた。はたから見れば比較的恵まれた環境のように見える場合でさえ、たとえば、報酬をつぎ込んで達成行動を動機づけようとしているような場合でさえ、成長へと向かう人間の自然な推進力は大きく損なわれることがある。

エドワード・L・デシ、「人を伸ばす力」、P.111
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