ゆたぼんの騒動から考えたこと

先日、不登校YouTuberのゆたぼんが話題になりました。以下、琉球新報の引用です。

ゆたぼんが学校に通わなくなったのは小学校3年生の時。宿題を拒否したところ、放課後や休み時間にさせられ不満を抱いた。担任の言うことを聞く同級生もロボットに見え「俺までロボットになってしまう」と、学校に通わないことを決意した。現在も「学校は行きたい時に行く」というスタイルを貫いている。

琉球新報(2019年5月5日版)

多くの方の目には、ゆたぼんがわがままを言っているだけのように写るのか、彼のことを批判的に捉える人がとても多いです。確かに、印象が良くなかった点もあります。1つは、「ロボットになってしまう」との発言です。この発言は、自分の行為を正当化するための言い訳にしか思えませんでした。もう1つは、同級生をロボット呼ばわりすることです。自分こそが正しいのだと言いたいのでしょうが、そのためにきちんと宿題をする同級生を見下すのは間違っていると思いました。

しかし、それらを加味しても、私はどうしても彼を批判的に捉えることはできませんでした。彼が学校に通わない理由は、本当に彼の言葉通りなのでしょうか。もちろん嘘ではないでしょう。ただ、それは表面的な一部でしかないと思います。彼が学校に通わない、より根本的な理由は、教師の接し方に理不尽さを感じたからに違いありません。記事には詳しく書かれていませんが、彼の投稿したビデオではそのことについても語られています。彼が言うには、居残りの強制や約束の反故、休み時間の拘束、さらには暴力まであったそうです。小学生にとって学校を休むということはとても大きな不安を感じることだと思います。そんな不安を選んででも学校を休むぐらいですから、理不尽さは相当なものだったと想像できます。

生徒が望ましい行動を取らない時、教師がすべきことは何なのでしょうか。それは、生徒の立場に立って考えることだと思います。もしかすると、宿題が難しすぎてできないと思ったのかもしれません。それならば、もっと丁寧にわかりやすく教えることが必要なのかもしれませんし、気兼ねなく質問できるような関係づくりが必要なのかもしれません。また、もしかすると、宿題の意義を感じなかったのかもしれません。それならば、彼が気づいていない意義を教えてあげることが必要かもしれませんし、彼にとって本当に意義あるものだったのか宿題を見直す必要があるのかもしれません。

とにかく、彼が宿題を拒否することには必ず理由があるのです。教師はその理由を知ろうと努力したのでしょうか。小学生だとまだ自分の気持ちをうまく言葉にできないかもしれません。それならば、粘り強く話を聞いて、一緒に彼の気持ちを言葉にすれば良いのです。この教師はその努力をしたのでしょうか。本音を言ってもどうせ怒られるだけだから言いたくないと思っているのかもしれません。それならば、普段から生徒の声に耳を傾け、信頼関係を築けば良いのです。この教師はその努力をしたのでしょうか。

教師についてあまり詳しい情報はありませんが、ゆたぼんがとった行動から、そのような努力をしなかったことは容易に想像がつきます。きっと、ゆたぼんの声に耳を傾けることなく、一方的に押し通そうとしたのでしょう。信頼関係を築こうともせず、規則だからと押し付けようとしたのでしょう。成長したいという気持ちを育てようともせず、自分の価値観を押し付けたのでしょう。それでも抵抗するゆたぼんを手っ取り早く従わせるために、暴力まで用いたのでしょう。

そのような背景まで考えた時、批判すべき対象は本当にゆたぼんなのでしょうか。私はどうしても彼に非があるようには思えません。むしろ、批判を恐れずに自分の意見をきちんと表明したことは、勇気あることとして褒めるべきことなのではないかとすら思います。また、先生がやれと言うから仕方なく形だけ宿題をやるような見せかけの行為に比べれば、よっぽど責任ある行動をとったと言えるのではないかとも思います。

では、批判すべき対象は教師なのでしょうか。もしこれまで書いてきたようなことが本当にあったのならば、もちろん教師を批判すべきだと思います。押し付けを教育だと勘違いし、立場上の優位を利用して生徒を操作しようとする。それは教育者としてあるまじき行為だと思います。教育者とは発達を手助けすべき存在なのに、手助けどころか手の届かない所に追いやってしまったのです。だから、この一件については教師を批判すべきだと思います。

しかしそれでも、この教師の全てを批判しようとは思いません。それは、この教師の行為にも理由があるのだと思うからです。もしかすると、本当はしっかり話を聞いてあげたかったが、時間的な余裕や精神的な余裕がないほどに追い詰められていたのかもしれません。もしくは、心からはやりたくない教師の職業を何らかの圧力によって選ばされたとか、本当は自分にとってやりがいのある職業を探したいが何らかの圧力によって探せないなどの理由で、仕方なしに教師をしているのかもしれません。

そして、理由の理由をずっとたどっていくと、その根っこはもしかすると、社会の仕組みといった、より大きなところにあるのかもしれないと思います。現代の日本は、人類史上最高に安心で豊かな社会なんだろうなと思っています。しかし、そんな現代の日本に生まれても、ゆたぼんのように生きづらさを感じている人はとても多いように思います。不登校、うつ、自殺、そんなキーワードが日常に溢れていますし、もっと身近なところでは、仕事を心からは受け入れてはいないが、生活のために仕方なく働いているという人や、何の意義も感じないが、通わなければならないから仕方なく学校に通っているという生徒がとても多いです。そんな人の方が多数派なのではないかと思うほどです。

この社会の中で暮らしていると、この社会のあり方こそが当たり前なのだと錯覚しそうになってしまいます。しかし、全ての人が活き活きと幸せに生きることのできるような理想的な社会のあり方があるのではないか?そんな疑いと希望を持った時、この社会はまだまだ発展途上なのだということに気がつきます。もちろん、それが具体的にどんな社会なのか想像もつきませんし、そんな社会が実現するのは、100年後なのか、1000年後なのか、さらに先なのか、全く見当もつきません。

それでも、そんな社会に思いを巡らせることによって、現代社会の当たり前に縛られている自分を、ほんの少しだけ自由にできると思うのです。当たり前に縛られず、本当に大切なものは何なのかを考えることができると思うのです。せめて、この塾の生徒だけでも、全員が活き活きと幸せに生きるようにはできないだろうか。そのために、この小さな塾で私たちにできることは何なのだろうか。理想から程遠い現代の社会の片隅でそんなことを考えた時、最も大切なことは次のことではないかと思いました。

「常に、どんな時も、生徒のミカタでありつづけること。」

ここでのミカタは、見方であり、また、味方でもあります。つまり、生徒の見方であることで、生徒の視点を尊重し、生徒の味方であることで、生徒の存在を尊重するということです。そうすることで、子どもなら誰しもが持っている成長への欲求を、自然に満たしてあげることができると思うのです。そんな欲求を満たしてあげることで、子どもたちは自分らしく伸び伸びと成長できると思うのです。そして、自分の意思で自分の人生を思い描き、活き活きと人生を歩んでいけると思うのです。

私たちにできることは本当にささやかなことではあると思いますが、これこそが、ゆたぼんが得られず苦しんだものであり、そして、多くの生徒たちが得られずに苦しんでいるものなのではないかとも思います。ゆたぼんの騒動から、こんなことを考えました。

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