投げ出すのは「分からない」からか?

「分からへん」とすぐに投げ出す生徒がいます。投げ出すのは、本当に「分からない」からなのでしょうか?これまで、分からないなら仕方ないのかなと感じると同時に、そこにずっと違和感も感じてきました。最近になって、そんな生徒達の行動がアドラー心理学の目的論によって違和感なく説明出来ることに気づきました。

私が違和感を感じるのは、「分からない」は必ずしも投げ出す理由にならないからです。分からないからこそ考え抜き、たった一問に何日も格闘したりする生徒が実際にいるのです。先日、数学で初めての学年トップをとった2人の生徒はどちらもこのような生徒でしたし、今は勉強が苦手でもそのように取り組む生徒もいます。

では、なぜ生徒によっては投げ出してしまうのでしょう。目的論によって解釈すると次のようになります。
「分からない」から「投げ出す」のではなく、
「投げ出す」ために「分からない」のである。

つまり、「分からない」が原因で投げ出すのではなく、投げ出す目的のために「分からない」を利用しているのです。このような生徒は投げ出すために使えそうな理由があれば何でも飛びつきます。その中でも「分からない」は実に手ごろなのでしょう。この一言を唱えるだけで怒られることもなく、目の前の苦痛から瞬時に逃げ出せるのです。この「分からない」は自分の外側に向かっているだけでなく、自分にも向かっているようです。この一言で投げ出してしまう自分をも納得させているのです。

この目的論による解釈は違和感を感じないどころか、指導の実感に非常に合っていると感じます。例え分からなくとも、できることはあるはずなのに、このような生徒は何もしないことが多いです。とりあえず手を動かして試行錯誤してみたり、問題文に分からない言葉があるならそれを調べたり、分かるところまでさかのぼったり、、、そのようなことを何もしないのです。なぜ分かろうとしないのかとても不思議に感じていたのですが、それはきっと分かることは目的ではなかったからなのだと納得しました。

納得すると同時に、今までの指導の問題点が浮かび上がってきました。今までは違和感を覚えつつも、このような生徒も少し背中を押せば考えてくれるはずと考えていたのです。ですから原理原則を解説したり、解説を図やアニメーションにしたり、類題を解いて見せたり、、、とにかく背中を押そうといろいろとやってきました。しかし、投げ出すことが目的の生徒からすると、目的からずれた意味を感じないことをやらされてると感じていたのかもしれません。逆に私自身が生徒だったとして、答えを写して終わりにすることを促されたとすると、とても無意味なことをやらされていると感じると思うのです。

もちろん、これまでの指導で変わる生徒もたくさんいました。しかし、表面的には考えるようになっても、本質的には変わらない生徒がいたこともまた事実です。本当の意味で考える生徒を育てるために必要なのは、考えることを促すことだけではなく、目的の変化を促すことなのかもしれないと思いました。

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